あなたの吃音は、どんな症状ですか?
もしも「連発」の症状がほとんどなくて、「難発」がメインだとしたら、
大丈夫です。
あなたは周囲から吃音者だとは思われていません。
以前から述べていることですが、あらためて。
私は難発こそが吃音だと思っています。
【M.R.M】の中村さんは、こんなことを言っています。
・「どもり」は知っていても、「吃音」という言葉を知っている人は少ない。
・どもりというと、一般的には「連発」のイメージを思い浮かべるのがほとんど。
確かにその通りだと思い、
この話を妻としていると、面白い発見がありました。
それが、冒頭の、あなたの吃音が「連発」の症状がほとんどなくて、「難発」がメインだとしたら、
あなたは周囲から吃音者だとは思われていないというものです。
やはり妻の認識もその通りでした。
・どもりという言葉は知っていたけれども、吃音という言葉を知ったのはずいぶん後のこと。
・そして、妻の吃音のイメージは、やはり「連発」。
妻は、以前、激しくどもる人を見たことがあるそうです。
その人の症状はもちろん「連発」です。
なぜなら、
「難発」の場合は沈黙ですから、まったく激しくない。ただの静かな人だからです。
連発=『動』の吃音
※『静』『動』の吃音は、私の勝手な造語です。
さすがに、あまりに症状が激しいと、気の毒な、ナントも言えない重い気持ちになるそうですが、
妻も、緊張するような場面では、どもる(=連発)ことはあるので、
それほど激しくない連発の場合は、何とも思わないそうです。
「この人、相当緊張してるんだろうな」
「もっと落ち着いて話せばいいのに」
と思う程度。
(もちろん、吃音者の場合は、落ち着いてもどもるのですが。)
つまり、普通の人でも、噛むことはあるし、慌てると「連発」は出てくるので、
よほど激しくない限りは、何とも思わない。
よほど激しくない「連発」は、よくある風景だと、世間の人は認識しているということです。
どうですか?
気持ちが楽になりませんか?
さらに続きます。
吃音センセイや、私のブログを読んだりしている妻ですから、
本物の吃音「難発」についても、少しは理解しているそうです。
そして、「難発」を理解したうえで、
なんと、妻にも「難発」の症状が、時々は出ることがあると言うではありませんか。
私の認識では、普通の人でも「連発」はありますが、
「難発」があるとなると、その人は、吃音者ということです。
これはとても興味深い話なので、さらに詳しく聞いてみました。
「言葉が出て来ないというのは、あれでしょ?」
「言いたいことが思いつかないということでしょ?」
「それなら私もあるわよ。」
安心しました。
妻は吃音者ではありませんでした。
妻の言う吃音は、『頭の中に』言葉が出てこない = 言葉が思いつかない。
難発の吃音は、『喉から』言葉が出てこない = 言葉は思いついている。
そして、妻のおかげで、1つ嬉しい発見をしました。
私とよく吃音談義をする妻でさえ想像できないのですから、
・非吃音者には、「難発」は、決してイメージできない。
・非吃音者にとっての吃音は、やはり『連発』。
まとめ
私たちが一番苦しい「難発」。
このとてつもなく長く思える時間。
気まずい沈黙。
その止まった時の中で、必死に言いやすい言葉を探している私たち。
この時、周囲は、私たちのことをこう思っているのです。
「今、この人は、きっと頭の中で一生懸命考えをまとめているんだ。」
どうですか?
気持ちが楽になりませんか。
あなたが物理的に喉から声が出なくて苦しんでいるなどと、誰も思ってはいないのです。
あなたのことを身体障害者などと、誰も思っていないのです。
あなたのことを吃音者とも、誰も思っていません。
今、そこに一人立ち尽くすあなたは、彼らからすると、単なる「考える人」でしかないのです。
なぜなら、非吃音者にとって、吃音とは「連発」だけです。
「難発」は、非吃音者には想像すら出来ないからです。
そして、そもそも吃音ということばさえ、ほとんどの人は知りません。
つまり、私たちのいつもの苦労は、単なる取りこし苦労だということです。
連発は、
よくある風景です。
よほどひどくなければ、誰も気に留めていません。
難発は、
こちらもよくある風景です。
あなたはただの「考える人」にしか見られていません。