私たちは、誰よりも話すことに苦労してきました。
この文章を読んでいるあなたは、 いまだにその苦しみのまっただ中にいるかも知れません。
ただし、何度も言う通り、吃音は必ず治ります。
体に余計な力の入らない、自然体の、心穏やかな会話というものは、本当に素晴らしいです。
自由に、自分が思ったことを話せる喜びは格別です。
誰よりも苦労してきた私たちなら尚更です。
あなたも、必ずこの素晴らしさを味わう瞬間が来ますから、どうぞ諦めないでください。
私は吃音だった当時から、おしゃべりだったことは何度かお話しました。
では、吃音が治った今は、輪をかけておしゃべりになったかというと、実はその逆です。
私は以前よりも、明らかに口数は減りました。
厳密には、吃音克服以前から、余計なこと、どうでもいいことは話さなくなっていました。
理由は、“美しい言葉”を使うことの大切さを、以前よりも理解するようになったからです。
余計なことは、あまり話さなくなりました。
特に、関西人特有の人をイジル言葉は、話す気がなくなりました。
今の私は、できるだけプラスの言葉を使うように心がけています。
常に、誰かの力になれる言葉。
優しい気持ちになれる言葉。
(妻にも、そうしてあげられるといいのですが不器用なもので^^)
これは私だけに当てはまることですが、
実は、私が吃音が治ったのは、この心の変化が大いに関係しています。
私は、一昨年から、随分と精神的に成長させてもらえる周期に入っていました。
「今年は我が家にとって“気づき”の年になりました。」
これは、その年の年賀状に私が書いた一言ですが、ここからも分かるように、
吃音の克服は、その半年後、つまり、延長線上に、“必然”としてあったと言えると思います。
もちろん、“気づき”中身は多岐に渡っており、とても書ききれないのですが、
その中の1つが、美しい言葉を使うことの大切さに気づいたことです。
私は、お世辞にも、きれいな言葉を使う人ではありませんでした。
人を不快にさせる言葉もよく使っていました。
今から考えると、どもっているくらいでちょうど良かったくらいです。
むしろ、だからこそ、吃音にさせてもらえていたとさえ、今は考えています。
あなたの話ではありませんから、自分とは重ねないでくださいね。
私の話です。
ただ、自分もそうだと、あなたが謙虚にも思うことがあるとすれば、
それはそれでいいと思います。
案外、私のように、好転していくキッカケになるような気がします。
いずれにせよ、あなたの吃音は近い将来、必ず治ります。
その時は、どうか、美しい言葉をたくさん使ってください。
人間が、言葉を獲得できたのは、
絶対に、人を貶めるためではありません。
人を勇気づけるため。
人に希望を与えるため。
人を愛するため。
美しい心を表現するためだと思います。
私は最近、
その人の言葉に、その人の心や魂を感じ取るようになりました。
その人をもっとも表すものが、言葉だと思います。
もちろん、言葉はいくらでも取り繕うことが出来ますから、
それだけでその人を判断することは出来ませんが、
言葉の汚い人は、最初から一発アウトです。